MTBで単独トロン峠(5,416m)越え 1994.10

9日目 カグベニ(2,804m)→ムクチナート(3,965m)

1994年10月11日 晴れ 最大標高差1160m/9時間 乗車率20%

砂漠化した山肌を登り始める。振り返ると、山の斜面には、斜めに地層が走っている。遥か太古から少しずつ傾いているのだ。今もほんの少しずつだが、傾いているんだろうか。背後には、ダウラギリⅠ (8,167m) とトゥクチェ・ピーク(6,920m)が雄々しく聳えている。遥か前方には、ヤクガマ・カング(6,481m) とカツーン・カング(6,484m) の鞍部にトロン峠がくっきりと浮かび上がる。

担いで登っていると、向かいからがっしりとした体格の白人トレッカーが降りてきた。彼は、僕の担ぎのスタイルをカメラに納めると”You are strong!”なんて言いながら僕のふくらはぎを触っていく。僕は、どう見ても彼の方が”strong” だなんて思いながら先を急ぐ。

ホテル・チェベルブ

ホテルが立ち並ぶムクチナートの集落から1時間半程登ったところに、ホテルがある。ホテル・チェベルブだ。このホテルは時計回りでアンナプルナを一周するトレッカーにとって、トロン峠のベースキャンプとなる。ここから先、トロン峠までの1,400mアップの途中に全く宿泊施設は無い。

ここは部屋が4つ程のこじんまりとしたホテルで、10人も泊まれば一杯になりそうだ。奥の土間には、ホテルを経営している家族が寝泊りし、調理場と食卓も兼ねている。今日泊まるのは40歳前後のフランス人とそのポーターとガイド、そして僕の4人だけだ。

家族のベットが夕食時には椅子になり、目の前の釜戸で奥さんが料理を作ってくれる。玉子入りチャーハンやフライド・ポテトが、ここではごちそうだ。チャーもおいしい。フランス人とも旅の話に花が咲き、明日のトロン峠の話しになった。

「ところで、明日はトロン峠を越えるのかい?」

「もちろんさ!」

「どうして時計回りなんだ?」

「丁度10年前、反時計回りでここを一周したんだ。その時次にもし来る事があったら、反対に回ってやろうと思ったんだ。」

「僕も越えるつもりなんだけど、ポーターは必要だと思うかい?」

「こっちから登るとなると、正直言ってどれくらい時間がかかるかわからないね。実際行った人は少ないし、ガイドブックにも書いていないし。10年前と違って体力的にも心配だからね。15kgの荷物を背負って越える自信はないね。高山病も心配だし。だから今回はガイドとポーターを雇っているんだ。」

アンナプルナの周回ルートは、ほとんどの人が反時計回りで一周する。それはトロン峠とベース・キャンプとの標高差が、時計回りだと余りにもきついからだ。僕は日本での準備段階で、トレッキング好きの友人からこの情報を得ていた。しかし、何故だか自分でもわからないが、地図を見ていると時計回りしたくてしょうがないのだ。ポカラで知り合ったネパール人の友達からも、熱心に反時計回りを薦められたが、気持ちが変ることはなかった。

ベットに入ってからも色々と方法を考えた。果たして、誰の手助けもなしに、無事にトロン峠を越える事が出来るのだろうか。取り敢えずバイクと食料だけ持って1,000mぐらい担ぎ上げバイクをデポして、一旦下り、明くる日改めて残りの荷物を持って登り、途中でバイクを拾って頂上まで行く。という方法も思い付いたが、一度登ったところを二度も登るのは御免被りたい。

結論を下すのは明日の朝に延ばし、明日の為にぐっすり眠る事にした。


10日目 ムクチナート滞在(3,965m)

1994年10月12日 晴れ午後から強風 休息日

可能性を探る

朝5時にフランス人の彼を見送った後、今日は明日のトロン峠越えに向けて十分な休息をとることにした。日がな一日、日向でホイールの振れ取りでもしながら、トロン峠を越える方法について考える。

単独でトロン峠を越えれるか!?

ムクチナートに到着するまでは、ポーターを雇わないととてもじゃ無いが“トロン峠”を越すことは無理だと考えていた。だが、ここでポーターを一人雇うと1日につき500ルピーを下らない。これは大き過ぎる出費だ。

単独で一周するのが今回の旅の目標の一つでもある。高度順化については、チベットの20日間でほぼ完成しているといってよい。しかし、空荷ならまだしも、15kgのザックと13kgのバイクの両方を担がなくてはならないのだ。しかも、日暮れ前に到着しなければならない。

ここから峠の向こうのトロン・フェディーまでは、登りの標高差1,400m、下りの標高差720mである。ポカラの”アニールモモ”というレストランの情報交換ノートには、日本の男女2人のバックパッカーが、トータルで12時間費やした記録が残っていた。登り10時間・下り2時間だ。彼らはポーターやガイドを雇わず、荷物は自らの背中に背負っていた。条件はバイクを除けば同じだ。今回の僕の装備では、シュラフやテントが無いことが最大の問題点である。ゴア・テックスのシュラフ・カバーはあるが、気温の事を考えると、ビバークが出来ないと言って良い。しかし、その装備まで持っての移動は、僕の体力では不可能なことは承知の上で、ポカラのホテルに残してきたのだ。残してきた事に後悔はしていない。もしあんなものまで担いでいたらここまで来れなかったのだから。第一15kg以上の荷物を背中に担いでのツーリングは長続きしない。ましてや登山道なのだから言わずもがなである。無事に着くためには、ポーターを雇うしかない...。

しかし、そうは頭の中で解っていても、心の奥底に釈然としない何かが残っている。自分は何の為にここまで担ぎあげて来たのか、自分は一体何を望んでいるのか、と自問自答が続く。行けなかったら行けなかったでいいじゃないか、元来たところをダウンヒルすればいいんだ。それより、単独で越えれるか越えられないかだ。今ここでポーターを雇えば後々後悔する事は目にみえている。大切なのは、一人でやってみる事だ。ダメだったらダメで、引き返すタイミングさえ誤らなければ、無事帰ってこれる。

僕はビン入りの液体消化剤や、ゴミを徹底的に捨てた。バイクのブレーキ・シューも新しいのに取り替え、古いのは捨てた。捨てた分を全部足し合わせても大した重さではないが、そうするより他ない。途中で諦めて戻って来たくはないのだ。


11日目 ムクチナート(3,965m)→トロン峠(5,416m)→トロンフェディー(4,642m)

1994年10月14日 晴れ後曇り 最大標高差1,440m/10時間 乗車率10%

早朝4時に目を覚まし、ウォーミングアップに取り掛かった。玉子入りのインスタント・ラーメンとチベタンブレッドで腹ごしらえをし、チャーを飲んだ。

ホテルのみんなに別れの挨拶をし、扉をあける。冷やりとしてしかも乾いた空気が顔を撫でる。標高4,000mから見上げる星空は、宇宙の雄大さと神秘を無言で語り、僕の進むべき道を微かに照らしてくれている。

 

一踏み毎に地球が沈んでゆく
 

シートチューブの重みが肩にかかり、気が引き締まる
 

左腕につけた時計の高度計のグラフは、順調な上昇直線を描いている
 

日本で幾度となく山に出かけ、峠や山頂までバイクを担ぎあげた経験は
 

全く無駄ではなかった事に気付く
 

3時間も歩いただろうか、りんごを一つ頬張る。振り返ると、はるか後方にダウラギリが聳えている。標高は4,600mだ。一時間に200mアップしている。この調子で登れば午後1時か2時には峠に着きそうだ。そう思ったとき、トレッキングの初日から昨日まで、ずっと感じていたの不安が嘘のよう消し飛んでいた。

高所の呼吸

標高も4,000mを越えると、登りの呼吸はかなり苦しい。富士山の頂上とは明らかに違う。合計で25kg近くの荷物を背負っていると、一歩一歩の歩幅は自分の足の大きさの半分にも満たない。少しでも無理をすると、足に疲労がたまり呼吸が乱れ動けなくなる。意外にも、休憩のために立ち止まりバイクを降ろすときと担ぐときに、最も呼吸が乱れるのだ。担いだときなど、10秒ぐらいは足を動かせない。筋肉に疲労をためず、呼吸を一定に保つのに神経を使う。

ついに到着“トロン峠”

7時間も担いだだろうか、ようやく赤や青の色鮮やかなタルチョが風にはためいているのが見える。トロン峠だ。タルチョは、チベットの峠でよく見掛ける慣習で。背丈ぐらいに石を積み上げたところからロープを引っ張り、そのロープにお教を書いた色とりどりの布を巻き付けるのだ。右方には、氷河をまとったカツーン・カング(6,484m) が、どっしりと構えている。山頂まではすぐ手が届きそうだ。

 

記念撮影もそこそこに、昼食をとる事にする。途中2.3度りんごや圧縮ビスケット・チョコレートをかじっていたが、ここでは残り物をほとんど平らげてしまった。圧縮ビスケットは ”761” と呼ばれるもので、ネパールに入る前は、チベットでおやつや非常食として常に持っていたものだ。それが余ったので、トロン峠越えの為に用意してきた。タバコ2箱より少し大きめのパッケージで、バーが4本入っている。全部平らげると、なんと1,200kcalもある。潰したビスケットのかけらをこれでもかという力で固めてあり、かじるのに骨が折れるし、水が無いと食えない。

今日の宿泊地トロン・フェディーまでは、余すところ下りだけだ。

 

砂漠化した谷間の山腹を
 

ヘビが這った後のようなシングルトラックが、彼方まで伸びている
 

路面はよく締まっているが、一面に砂利が浮いている
 

コーナー直前のブレーキングで、後輪がギュンギュンとロックする
 

つづら折れの急坂では、リアがロックしたまま右に左にドリフトする
 

激しいブレーキングで、腕もパンパンだ...
 

トロンフェディーの賑わい

トロン・フェディーは、反時計回りでトロン峠に登る人にとってはベース・キャンプの様なところだ。彼らはここをベースにして、高度順化の為のトレーニングをしたり、明日に備えて休養をしたりして過ごす。

夕食時、ここ“トロンBCロッジ”のレストランは腹を空かしたトレッカーでごったがいしている。初老の夫婦や青年のグループ、そして若い恋人同士など、様々だ。ざっと数えてみても100人はいるだろうか。それぞれの国も、アメリカ人・イギリス人・フランス人・ドイツ人・デンマーク人・オランダ人・日本人等々、数え挙げればきりがないほどだ。でもここでは、自分がなに人であるかという事はどうでもいい事のように思えてくる。自分は地球上に住んでいる、ただそれだけだ。みなそれぞれ、明日の事を話し合ったり、世間話をしたりして過ごしている。いろんな国の言葉が入り乱れている。

俺はトレッカーだ!

今夜は標高が4,700mで、最も冷えそうなので、毛布を2枚ホテルマンに注文した。ホテルマンは、いくら待っても頼んだ毛布を持って戻ってくる気配が無い。レストラン内はトレッキングの客でごった返しているし、ホテルマンもネコの手も借りたいぐらいに忙しそうなので、忘れてしまったのだろうかと半ば諦めていた頃、日本人トレッカーと出会い、この事を話してみた、

「まったく、毛布頼んだのに返事だけして全然持ってきてくれないよ...。」

「それは、君がポーターと間違われてるんだ!」

と彼は笑いながら言い、ネパール語でホテルマンに掛け合ってくれた。どうやら僕がネパール人のポーターと間違われていたらしい。彼らにしてみれば、「ポーターの癖に、この忙しい時に何を言ってるんだ。毛布なんて後だ、後!」ってな感じだったらしい。彼は、海外青年協力隊の隊員で、ネパールのカトマンズに駐在中らしく。休暇を利用してトレッキングに来ているとのことだった。

どうやらネパール語で挨拶したのがいけなかったらしい。ぼくは、ネイティブの人と話すときには、英語で話すにしても日本語で話すにしても、最初は彼らの母国語で挨拶するように心掛けている。しかしここでは、「ハロー!」とはっきり言った方が、良いらしい。英語さえ話せれば必要にして十分なのだ。特に日本人は、「俺は日本人だ。トレッカーだ。」ということを、もっとアピールしないといけないらしい。


12日目 トロン・フェディー(4,642m)→マナン(3,351m)

1994年10月14日 曇り後晴れ 最大標高差1290m/5時間 乗車率80%

毛布2枚では寒くて熟睡できなかったが、この寒さもこれが最後と自分に言い聞かせ、ベットから這い出る。食堂で朝食をとりながら耳にしたのだが、昨夜はトロン峠で雪が降ったらしい。10月中旬ともなるとこの辺りでは雪が降ってもおかしくはない。雪が積もると、トロン峠越えも延期せざるをえないのだ。一昨日降らなかったのは幸運としかい言様が無い。朝10時の出発時点で、温度計を見ると気温は7度だ。

この辺りは、マルシャンディー河の上流で、V字型の渓谷が続いている。最初の一時間は、幅が数メートルしかない河原を押したり担いだりのくり返しで、いいかげん疲れてくる。しかし、急斜面のつづら折れを登りきれば、山腹をトラバースする良く締まったシングル・トラックが現れる。路面はフラットで、大きな石は殆ど見当たらない。アップダウンはあるが、下り基調で乗ったまま進める。コーナーを曲がるごとに思わず頬が緩んでくるのが自分でもわかる。

一本のスペア・チューブ

気持ち良くシングルトラックのダウンヒルを楽しんでいると、何やらリアタイアの様子がおかしい事に気がついた。どんどんとタイヤがソフトになってきている。高度を下げると相対的にチューブ内の気圧は下がってくるので、ソフトにはなってくるが、それにしても速すぎる。フレームポンプで空気を押し込むが、しばらく乗っているとすぐにソフトになっていく。こりゃパンクだと思い修理に取りかかるが、チューブには穴一つ見つからない。もしかしてと思いバルブの根元を見てみたら、何と裂けているじゃないか。こんな経験は初めてだ。

原因はすぐに思い当たった。険しい下りでリア・タイアをロックしたまま何メートルも走る事が多いからだ。だがスペアチューブはたった一本しかない。3週間も登山道を行くのに、日本で週末に山へ出かけるような装備で来てしまっている。なんて愚かなんだろう。残りのチューブは、荷物の軽量化の為とはいえ、ポカラのホテルにおいてきたのだ。

ここからは空気圧をやや低めに設定し、グリップ走行で慎重に下るしかない。ここで残り一本しかないチューブを傷めてしまうと、これから始まる標高差5,000mの壮大なダウンヒルが台無しとなる。残りの日々はただバイクを担いでの修行僧と化してしまうかもしれないのだ。これでは、はるばるチッベットを越えてネパールくんだりまで何をしにきたのかわからなくなる。

マナンのカルマ

連日の爽快ダウンヒルで、精神的にも肉体的にも余裕が出てきた。そろそろ酒でも飲んでみるか。ネパールの代表的な酒は”ロキシー(焼酎)”と”チャン(ドブロク)”だが、ここでは”チャン”を頼んだ。チャンは、ロキシー同様自家製で、その為地方や店によって味に違いが出る。蒸留していないので、色なんかは日本酒のドブロクに近い。ここのはとってもフルーティーだ。

ホテルのレストランで働いている青年が人懐っこそうな笑顔で話し掛けてきた。彼の名はカルマと言い、日本語が結構話せるようだ。以前、長期間滞在した日本人トレッカーに教えてもらったらしい。

「日本はすごいね。時計やラジオにカメラ、僕達の欲しいものはみんな日本製品だ。それに日本ではいっぱいお金を稼げる。ネパールも、早く日本みたいになればいいなって思うよ。」

「カルマ。確かに日本は物質的にも経済的にも豊かになった。だけどそれと引き換えに、大切なものを失っているんだ。何だか解るかい? 豊かな自然と人間性だ。君達の住むこのネパールには、美しい自然がたくさんあって、素朴でいい人達がいっぱいいるじゃないか。自然は一度壊すと元に戻す事はできないし、物質的に豊かになったとしても、人は幸せになるとは限らないさ。君達には、今あるものをもっと大切にして欲しい。」

僕は話している内に、溜まらず薄っすらと涙を浮かべていた。カルマは、複雑な表情で僕を見ていたが、やがてこっくりと肯いた。僕はグラスに残っているチャンをグイと飲み干した。”シバラトゥリー(おやすみなさい)”と互いに挨拶をして、僕はテーブルに背を向けた。カルマの見送る姿がこころなしか寂しげだった。

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