1994年8月29日 シガツェ(3765m)→チャモ(3920m) 晴れ/テント泊
1994年8月30日 チャモ(3920m)→ツオ峠手前(4390m) 晴れ/テント泊

消えた靴

 朝起きたら、畑中の靴が忽然と姿を消していた。畑中は、3日前にシガツェで再会したサイクリストで、僕らに合流し一緒に走ることになったのだ。

 昨晩は、全く人気のない所を選んで、テントを張った。集落も辺りには全く見あたらないところだから、つい安心したのか、夜中に起きてトイレに行った後、テントの外に靴をほったらかしておいたようだ。そういえば朝方、ピューと言う口笛が辺りに轟いていた事を思い出した。
 この辺りには集落が無いが、遊牧民の通り道なのだろう。彼らが持っていったとは断定できないが、道路からは見えないところにテントを張っていたので、ほかには考えられない。動物がくわえて行ったという可能性もあるにはあるが…。

 結局畑中は、奥田の持っていたサンダルを借り、急場をしのぐことになった。

チベタン・キッズの襲撃

 これはいくつかの村で何度も経験したことなのだが、畑や空き地などで遊んでいる子供たちが、僕たちサイクリストを遠目に発見すると、大声で何かを叫びながら僕らの進行方向に向かって駆けていくのだ。

 最初はその方向に集落があったので、その集落の方に駆けているんだなと思っていたが、どんどんと僕らの方に近づいてきて、手を出して叫んでいる。僕は物乞いをされているんだとピンときて、そのまま走り去ろうとしたが、彼らは去ろうとする僕らに向かって石を投げてよこしやがった。それも一つや二つじゃない、みんなで一斉に投げてくるのだ。
 それからというもの、村に近付いてくると怖くなり、身構えるようになってしまった。

 ただの通りすがりの僕たちが、彼らにもの与えることは、決して良いこととは思えない。彼らにせがまれるままに物をあげてしまう人が悪いのか、せがむ子供たちが悪いのか、あるいは、明らかに彼らより物を持っていて金持ちだと分かる格好で旅する僕らが悪いのか?
 ああ、誰があの子供たちをあんな風にしたんだろうか、と、自分たちのしている旅のことも含め、考えずにはおれなかった。

 

1994年8月26日 ヤムドローリング(3775m)→シガツェ(3765m) 晴れ/ホテル泊
1994年8月27日 シガツェ滞在(3765m) 晴れ/ホテル泊
1994年8月28日 シガツェ滞在(3765m) 晴れ/ホテル泊

日本人サイクリストとの再会

 シガツェは、ラサに次ぐチベット第二の町で、西のはずれの山麓には「タルシンポ寺」が山を背にしてたたずんでいる。シガツェは15世紀以来、このタルシンポ寺の門前町として栄えてきたようだ。
タルシンポ寺の道を挟んだ向かいには、「フルーツホテル」という招待所があり、僕らはそこに宿をとった。

 あくる日、近くの食堂でワンタンを腹一杯食べて宿に戻ると、一人の日本人がロビーに来ていた。ラサのヤクホテルで出会った、畑中君だ。
 彼は、僕らと違う南側のルートから、シガツェに到着したらしい。途中の5千m前後の峠は、やはり彼にとっても辛かったようで、何度かヒッチハイクをせざるを得なかったようだ。
 彼のすごいところは、海外旅行は初めてだし、自転車でのツーリング経験もゼロなのに、いきなりラサで中国製マウンテンバイクを買って、チベットツーリングを初めてしまうところだ。中国製マウンテンバイクは形こそマウンテンバイクのようだが、ハブの玉押しはざらざらで、走っているとベアリングが削れて無くなるし、シートピンは柔らかいアルミ製で、すぐにネジ山がつぶれるし、車重は重いし、キャリアは華奢でグラグラしているというとんでもない自転車なのだ。

 なにはともあれ、シガツェまで無事走ってこれたということで、夕食はお互いの無事をたたえ合い、中華料理に舌堤を打った。

万国共通の中華料理

 中華料理ほど、世界各国で食べられている料理は外にないだろう。そのためかチベットでも、西欧諸国の人々がカレーやチベット料理で満足できなくても、中華料理だと割とうまそうに食べているのよく見かける。

 第2次世界大戦後、新生中華人民共和国がチベットを自国の領土の一部だと宣言してから、チベットは中国だといわれる。そう宣言される以前も、隣国同士であったことには変わりはない。従って、当然チベットにも漢族が移住し中華料理の店を開いている。

 日頃缶詰や、ラーメン・チョコレート・ビスケット等で食いつないでいる僕らサイクリストにとっても、中華料理が食べられる町に到着することは、今回の旅の大きな楽しみの一つだ。
 チンジャオロースーに始まって、マーボドーフ、肉野菜炒め、トマトオムレツ、卵スープ等数え上げるとキリがない。メニューはもちろん4文字熟語のような中国の漢字で書かれている。漢字から想像して注文するが、一体どんな料理が出てくるのか分からないで待っているのもまた楽しいものだ。
 3人で行けば、料理3品とスープの大きいのを注文しライスをおおかわりすれば、もういいと言うくらい腹一杯になる。

1994年8月25日 ダグシュカ手前(4075m)→ヤムドローリング(3775m) 晴れ/テント泊

チベットのカレー

 細かいアップダウンを繰り返しながら、どんどん下っていくと、やがて、目の前にヤルツァンボ河が横たわっていた。ヤルツァンボ河は全長が2,900kmといわれ、遙かインドではプラマプトラ河と呼ばれベンガル湾にそそいでいる。
 対岸には、荒野とほとんど同じ焦げ茶色をした建物が並んでいる。ここがダグシュカのようだ。

 手元の地図ではこの河を渡る事になっているのだが、橋など全く見あたらない。橋をかけるには河幅が広すぎるのだろう。他の道を探してみたが、この河を越えないと先に進めない様だ。
 目を凝らしてみると、彼方の対岸にフェリーの様なものが見える。それがこちらに来るのかどうか分からないが、他に方法がないので、気長に待つしかない。

 チベットの太陽は、ジリジリと容赦なく僕らを焦がす。チベットの空気は下界の半分にも満たないが、その分紫外線を遮るものも少ないのかもしれない。走っているときはそれほど暑く感じないが、止まっていると風がないせいか、汗がにじみ出る。
 日陰を見つけそこに移動するが、気が付くと日向がどんどんと追いつき、その度により涼しいところに移動することになる。
 太陽とのいたちゴッコに嫌気がさしてきた頃、ようやく対岸のフェリーらしきものが動き始めた。それに合わせて、どこから現れたのか数人の現地人もその乗り物を見つめている。

 ロバに荷物を満載した、あるおじさんに声を掛けてみた。ジェスチャーや筆談でしか話せないが、彼は敦煌からロバを連れてきたという。昼間っからチベットのどぶろく“チャン”をあおり、まっ茶色に日焼けし、しわも出始めているその顔からは想像できないが、彼は僕と同じ年だという。何のために、どのようにしてここまで来たのか聞けなかったが、彼の人なつこい笑顔は、チベットひいては中国をも、より身近な存在として感じさせてくれた気がする。

 そんな彼と、対岸の食堂で食べたのが、チベット・カレーの一つ”アール・カレー”。
 インド・カレーのように辛くはなく、汁けも少なくサラサラとしている。具のほとんどはずんぐりしたジャガイモで、ネギの刻んだものも入っている。
 メニューがさっぱり分からないので、調理場で鍋の中を覗いて頼んだが、これは正解だったようだ。

 

1994年8月24日 スゲ峠手前(4785m)→スゲ峠(5300m)→ダグシュカ手前(4075m) 晴れ後吹雪/テント泊

標高5,300mのスゲ峠越え

 出発してからもう既に3時間を経過した。高度は5,000mを越えた辺りだ。相棒の奥田は見るからに苦しそうで、上半身が前のめりになり、険しい顔つきで自転車をゆっくりと押している。

 彼は、日本を発つ3日前に、大学のクラブ・ランで北海道一周を終えてきた、という強者だ。その奥田がこんなに苦しんでいるのは初めてみる。やはり、疲れが溜まっているのだろうか。
 自分はといえば、いつもは「ピーヒャラ、ピーヒャラ…」などと口ずさみながら峠を登っているが、今はそんな余裕など全くなくなっている。左右の足を振り下ろす度に一・二、一・二、拍子を取ってこぎ続けるので精一杯だ。リズムが崩れると、すぐに呼吸が乱れ、それが足に伝わる。
途中何度も、水で乾いたのどを癒やし、チョコレートやビスケットでエネルギー補給する。
もうこの辺りになると、降りて押そうと頑張って漕ごうと、さほど差はなくなってきたようだ。それでも、意地を張って漕ぎ続ける。今の目標は最後まで登り切ること、ただそれだけだ。疲労感なんてどこかに置き忘れてきたようだ。

 さらに1時間半ほどそれを続けると、ようやく峠に到着。

ラッキーなことにトラックが…

 峠に一番乗りし浮かれていたのは束の間、峠の向こう側は真っ黒な雨雲が空を埋め尽くし、暗黒の世界の様相を呈している。振り返ると彼方まで広がる透き通るような青空を、灰色の雲が浸食し始めている。気温は見る見る下がり、ハンドルに巻き付けた腕時計のセンサーでは0度だ。

 相棒の奥田がやっと到着し、これからどうしようか話し合っている矢先、1台のトラックが数本下のつづら折れの道に見え隠れした。一日に1台通るか通らないかのトラックが、今ここに向かっているのだ。ラッキーだ。

 僕は、道の真ん中に立ちはだかり、大きく手を振ってトラックを止めた。手短に料金交渉をすますと、荷台に自転車を固定し、乗り込んだ。
 荷台は荷物と先客で一杯になり、トラックはグゥオングゥオンうなりながら走り出した。荷台に幌はなく、降り出した雪が容赦なく顔や手を襲う。先客のほとんどは、上着を着込んだり毛布にくるまったりして寒さをしのいでいる。

温かいもてなし

 3時間もガンガンと激しくトラックに揺られただろうか。高度も4千mほどに落ちてきた。吹雪もいつしか横殴りの雨に変わり、冷たい雨もいつの間にか小雨になっていた。
と、程なく一軒の民家の前にトラックが止り、皆トラックの荷台から降り散っていった。僕らもここで降ろされるかと思ったが、民家の部屋の中に招かれた。おなかが空いているかと聞くので、空いているという返事をすると、じゃあこっちに来いと案内されたのだ。

 言われるままに椅子に座り、暖かいストーブで暖をとらせてもらっていると、暖かいバター茶と共にツァンパが振る舞われた。
 ツァンパは、チンコー麦(ハダカムギ)を煎って粉に挽き、バター茶でこねて食べるチベットの主食だ。味は、日本の麦こがしやはったい粉と呼ばれるものに似ている。子供の頃よく砂糖を混ぜておやつに食べた記憶があるが、砂糖を入れないとこんなにもうまくないものだったとは…。
 しかし食べ慣れれば、きっと米のようにおいしく感じるのだろうと思いながら、茶碗一杯を平らげた。

1994年8月23日 ヤンバージン(4275m)→スゲ峠手前(4785m) 晴れ/テント泊

朝の儀式

 チベットも一歩メイン・ルートから外れると、ミネラル・ウォーターなんて気のきいたものは、なかなか見あたらない。そんなことも予想して今回の旅では浄水器を持参している。
 浄水器と言っても家庭の蛇口についているようなものではなく、空き缶一本分ほどの小型で軽量なものだ。スイス軍公式採用の浄水器の廉価版だが、上位のものと比べても浄化性能にそれ程差はないらしい。

 今朝もその浄水器で水を造る。

 水源は直径5mほどの池で、小川から白濁した水がスルスルとそそぎ込んでいる。白濁の原因は石灰か何かだろうが、セラミック・フィルターの目がつまって、数百ccも水を浄化するとポンプが動かなくなってくる。その度にフィルターを水で洗ったり、表面を薄く削ったりして、目詰まりの原因を取りのぞかねばならない。

 そんなことを何度も繰り返していると、腕の筋肉はパンパンではち切れそうになり、呼吸も激しくなってくる。酸素は下界の半分も無いから、限界がくるのも驚くほど早い。
 結局、日本から持参した1.5Lのペット・ボトル一本の水を造るのに45分もかかってしまった。

高所の呼吸

 チベットの4千メートルという高度は、僕らの体に否応なく難題を突きつける。
 吐き気や、頭痛は無くなったものの、4,800mともなると、テントの設営作業だけで、立ちくらみがして、なかなかはかどらない。きっと脳に送られるべき酸素が不足しているのだ。普段余り運動していない人が、いきなり筋肉トレーニングを始めたりすると起こる、立ちくらみやめまいといったものと同種のものだろう。
 また、ペグを打つための、しゃがんだり立ったりするような激しい動きの後は、しばらくじっとしていなければならない。おそらく筋肉に溜まる乳酸を処理する酸素が足りないのだろう。
そういうときはつい、
「乳酸がー…。」
と叫びつつ、じっとしていることもしばしばだ。

 富士山登頂の際、頂上付近では、多くの人が軽いめまいや頭痛を感じ、吐き気を催す。7・8合目で、苦しくて下山せざるを得ない人も少なくない。また、その人のその時の体調によってさえも、症状は変化するのだ。

「この前は頂上まで行けたのに、今回は頭が痛くてしょうがない…。」

と悔しさを隠しきれない人もいる。

 さて、明日はいよいよ標高5,300mのスゲ峠越えだ。明日に備えて、今日は早めにゆっくりと体を休めることにした。

1994年8月21日 ラサ(3658m)→ヤンバージン手前(3830m) 晴れ/テント泊

 宿のみんなに見送られ、僕ら二人は、名残惜しいラサの町を後にした。

 一歩町から出ると、チベットの乾燥した土埃の舞うイメージとは裏腹に、緑が多く気持ちのいい風景が続いている。遊牧民の家畜だろうか、ロバや山羊が水を飲んでいる。“のどか”というのを絵に描いたらこうなるのだろうか、などと考えながら足取りも軽く漕ぎ続ける。

 今回の旅は、一人ではなく、出身大学のサイクリング・クラブの後輩、奥田君が一緒だ。僕が五反田のある飲み屋でチベットの話をしたとき、彼は“日本を走る”ということに関しては、そろそろ満足してきたようで、そろそろ海外も走ってみたいと思っていた矢先だった。僕の方は未だ構想段階の話をしただけなのだが、彼は既にその気になってしまっていた。
 半年後、僕はチベットに行くことを決め、彼と協力し合って、準備に取りかかったのだ。

 さて、60kmも走っただろうか、ようやく集落が見えてきた。二人とも初日と言うこともあって疲れたのか、走るのはちょっと早めに切り上げて、休むことにする。先が長いのだ、急いでもしょうがない。 集まってきたチベタン(チベット人)に、うどんをすするまねをしながら、近くに食堂はないか尋ねてみた。

僕   「サカン、ドゥー?(食堂、ある?)」
チベタン「…ミン・ドゥー、…。(…無いよ…。)」

きっとそう言ったのだろうが、はっきりとは聞き取れない。しかし、ジェスチャーや雰囲気からして食堂は無いようだ。

場所代にマルボロ

 民家の近くの空き地にテントを張らせてもらうことになった。しばらくすると、村中の人がテントの周りに集まってきた。テントの入り口にはちょっとした人だかりができ、人々は皆、僕らの一挙手・一頭足を興味深げに眺めている。

コンロを取り出し、お湯を沸かし始めると、

「夕飯はまだか?」

 などとジェスチャーで訊いてくる。まだだと言えば、おそらくチベタンの家に呼ばれ、チベットの家庭料理でも振る舞ってもらえるのだろう。だが、今日は2人とも走行初日ともあって大変疲れているので、チベットの人々に気を使う余裕などない。飯を食ったら早く休みたい気分だ。良い機会なのだが、丁寧にお断りする外無い。

 だが、いつまでたっても引き取ってもらえないので、所場代にとマルボロを差し出した。彼らのやりとりで気が付いていたのだが、どうやらこの土地には、ちゃんと持ち主がいるらしい。受け取ったその親父は、マルボロの箱をジロジロ見回して、どれぐらいの価値があるのか訊いてきた。

「20元」

と答えると、満足そうな笑みを浮かべている。

「シムジャナンゴ(おやすみなさい)、シムジャナンゴ…。」

と、数回呪文のように唱えると、やっと分かってもらえたらしく、皆を連れて引き上げてくれた。

 食事を終え程なくすると、静寂と共に心地よい睡魔が訪れた。

 

 

1994年8月20日 ラサ滞在(3658m) 晴れ/ホテル泊

亜旅館(ヤク・ホテル)

 ラサでの宿は、亜旅館(ヤク・ホテル)という、世界各国のバック・パッカー御用達のホテルだ。ドミトリーで一泊20から30元(1元=約12円/1994年当時)と安く、トイレやシャワーは共同だが、居心地はすこぶる良い。

 中庭では、暖かい太陽の下で日向ぼっこをするのも良し、相棒とこれからの行動について話し合うも良し。これから向かう未知の土地の情報は、同じようにそばでのんびりとしている人たちに尋ねるのが一番だ。どのバック・パッカーも、自分が行ったことがある所なら、詳しく教えてくれる。

「あの食堂のトゥクパは、安くてうまい。」
「あそこからここまでは、いくら掛かった。」
「あのホテルは、汚ねーし、なんきん虫に噛まれるし、ひでーとこだ。」
「ポタラ宮の入り口では、中国人のそぶりでチケットを買うと、1元で買える。本当は40元だけど…。」

等々、様々な情報が入って来る。日本を発つ前に、いくら調べても分からないことや、時が経つにつれて陳腐化してしまうような情報は、このような機会を見つけて収集することが可能だ。

買い物は八角街で

 ここから先、目的地のカトマンズまでは、ラサの様に大規模な町はほとんどないとの情報を得ていたので、出発を明日に控え、今日は買い出しに専念することになった。

 ヤク・ホテルから歩いて数分の「八角街」には、シャツ・帽子などの衣料品や日曜雑貨類、あるいは土産物に至るまで、ありとあらゆるものがそろっている。もちろん種類は少なく選択の余地があまりないが、チベットで生活する限り、十分であるように思える。

 ツーリング中の食品類の買い出しは、八角街付近の市場で済ますことにした。市場には様々な種類の野菜や果物、缶詰、チョコーレート、スナック等々所狭しと並んでおり、皆一様に品定めや値段交渉に余念がない。僕らも負けじと店の主人と値段交渉に励む。

 建物全体は日本の一昔前の「百貨店」とゆう言葉がぴったりで、一階は食料品、二階は衣料品や電気製品が置いてある。衣料品の中では、やはりチベットでもスーツが流行の最先端の様で、少々高い値が付いている。

 この日、買い出した食料品はざっと次のようなものだ。

  • インスタント・ラーメン
  • 乾麺(うどんのような麺の束)
  • チョコレート(スティックタイプのもの2ダース)
  • ドライフルーツ(干しぶどうやナッツ類)
  • 猪肉缶詰(豚肉の缶詰と思われる…)
  • 761(中国人民軍!?御用達の圧縮ビスケット)
  • スキムミルク
  • パイナップルジュースの粉
  • 飴(のどの乾燥対策!?)
  • ピーマン等
ポタラ宮殿

1994年8月19日 ラサ滞在(3658m) 晴れ/ホテル泊

 誰でも一度は耳にしたことがあるだろう、天空に浮かぶ国「チベット」。行ってみたいと思っている人は少なくないに違いない。富士山より高いところに、どこまでも限りなく広がる荒野と、とうとうと流れるヤルツァンボ河は、見るものに悠久の時を感じさせてやまない。
 そんなチベット第一の町「拉薩(ラサ)」に到着したのは3日前のことだ。到着したときから、ラサの空気はカラカラと音を立てている。
 ふと気付くと、ボヤッとしている自分がいる。昨日あたりから、どうにもしがたい吐き気が絶え間なくつづき、頭が石になったように重い。これが高山病というものだろうか…

 空港からラサの市街までは100km近く離れていて、バスに数時間揺られなければならなかった。バスの埃っぽい窓を透して見えるのは、見渡す限りの荒野と、それほど高くない山々だ。とはいっても、山の頂は皆富士山よりはるかに高い、そしてその山を見上げている自分も、富士山とほぼ同じくらい高いところをバスで走っているのだ。何とも不思議な気分である。

 丁度一ヶ月前のことだ。僕は、前の晩遅くまでかかって書いた辞表を部長に手渡すと丁寧に挨拶をし、晴れ晴れとした気持ちで、後ろ手にドアを閉めていた。通い慣れた階段を下り、いつもの通り守衛のおじさんに会釈しビルの外に出た。空は青く澄みわたり、午後の日差しがちょっと眩しかったのを覚えている。

 それからというもの、僕は資金稼ぎのために夜勤の仕事をしながら、パスポート・ビザ・飛行機のチケットなどの手続きに追われ、その合間を縫ってチベットの研究とそこを走るための自転車や装備の準備に奔走する忙しい日々を送ることになった。

 日本を発つ直前まで、チベットを本当に自転車で走れるのかどうかについて、決め手となる情報は入ってこなかった。チベットツアーを組んでいるその筋では有名な旅行会社数社に、パックツアーではなく、ラサまでの飛行機のチケットだけが欲しいと相談してみたが、現在チベットの個人旅行は難しいので用意できないと言う返事が返ってきた。

 チベットは秘境だと呼ばれて久しいが、未だにそうなのだろうか…。しかし、チベットツアーなど組んでいないある旅行会社に知り合いを通じて問い合わせてみたところ、特に問題なくラサまでのチケットが手にはいるという。一体どういうことであろうか。

 何はともあれ、チケットが手には入ればこっちのものだ。自転車で走れるかどうかは行ってみれば分かることなのだ。