1994年9月9日 ドラルガート(540m)→カトマンズ(1210m) 曇り/ホテル泊

ようやく、ネパールはカトマンズへ

 前方にトローリーバスの電線が見えてきた。地図にはしっかりとトローリーバスのルートが記されている。これをたどっていけば、目的地に着けるのだ。もう少しだ。もう少しで、カトマンズの中心なのだ。

 ここがネパールきっての大都市、カトマンズだとはっきりと確信できる環状道路の一交差点に到着したのは午後3時過ぎだ。
 サドルから降りてしばらくぼーっと立ちつくしていた。

 約1,000kmを走り終えた安堵感からか、自分で決めたことを最後までやり通した達成感からか、自然と涙が溢れだす。
 この旅は何事にもかえ難いすばらしい思い出として、自分の記憶の中に残るだろうと思えた。

 振り返ると、仲間がもう数百メートル後ろに来ている。一番乗りの僕は、後続の二人に悟られぬよう急いで涙を拭い去った。
 ビン入りコーラをぐいと飲み干し、二人を出迎えた。二人とも疲れの中にも満足そうな笑みがこぼれて見える。僕以外の二人は海外旅行は初めてで、その内一人は、自転車での遠出さえ初めてなのだ。本当によくやったと思う。
 度重なるトラブルや疲労感は、”到着した”というこの事実がすべて吹き飛ばしてくれた。

 カトマンズに数日滞在した後、奥田は大学の授業に間に合うよう、帰国。まだ旅を続けるために残った、僕と畑中は、そろって急性食中毒にかかり数日寝込むことになった。その後畑中は、ネパール第二の町ポカラに向かって走り、僕は次の”アンナプルナ一周”に向けて準備を始めた。

 

1994年9月8日 コダリ(1,770m)→ドラルガート(540m) 晴れ/ホテル泊

国境を越えるとそこはインド文化圏!?

 国境を超えれば、そこはインド文化圏と言っても過言ではない。目鼻立ちのすっきりしたいわゆるアーリア系(インド人)のなんと多いことか。それまで会ってきた中国の漢族は日本人と結構似ているし、チベット人も日本人と同じモンゴル系である。どちらかと言えば、チベット人のほうが中国人よりも日本人に似ていると言っていいぐらいだ。

 民家の壁などの色彩も原色が多用され、中国側の白っぼいの塗り壁とは対照的だ。バスなどは日本のトラック野郎よろしく、派手な神様の絵と色とりどりの電球で飾り付けられている。
 中国側は、どちらかというとのんびりとしていて静かで、退廃的である。対してネパール側は、町に音楽や騒音が溢れ、活気がある。国境を越えるだけでこんなにも変わるもなのだろうか。

 走りながらいくかの村を通り過ぎるのだが、今日に限って、女性はみな真っ赤なサリーを身にまとい、川辺の一所に集まっていく。おそらく神のまつってある所に集まり、沐浴して心身を清めるのだろう。英語の話せるネパール人から聞いたところ、今日は丁度お祭りで、国民的な祝日らしい。
 村に入る度に、真っ赤なサリーで着飾り、美しく化粧したネパール美人を見ることができるのはすごくラッキーなことだ。

1994年9月7日 ニャラム(3,830m)→ザムー(2,300m) →コダリ(1,770m) 晴れ/ホテル泊

ナマステ!ネパール

 国境を越えて一番最初にすることは何だかわかるだろうか。それは、挨拶の言葉を覚え直すことだ。
 いままで「こんにちは」を「タシデレー(チベット語)」と言っていたのを、「ナマステー(ネパール語)」に変えるのだ。ほんの数分前チベットの言葉を話していたのに、今からは新しいネパール語を話さなければならないのだ。

 話すと言っても最初は、

「ナマステー(こんにちは、こんばんは等)」
「ダンニャバード(ありがとう)」などの挨拶から始まり、

数字
エク(1)
ドゥイ(2)
ティン(3)
チャール(4)
パーチ(5)


その他、
ヨ・ケ・ホ(これはいくらですか?)

ヒサッブ・ディノス(お勘定!)

等々、少しずつ会話の中に入れて語彙を増やしていく。だが、あまり上手に質問しても、返ってきた答えが聞き取れないので結局また英語で聞き直すということが多く、ストレートにうまく会話ができるまではなかなか大変な努力と時間が必要だ。
 でもそんななか、こんなおもしろい会話があった。

 ネパールでの入国審査はすごく和やかな雰囲気で始まり。入国審査官はその辺を歩いているおじさんとあまり変わりがなく、親しみやすい表情をしている。

僕  「ナマステー(ネパール語)」
審査官「ナマステー、Show me your pasport.(パスポートを見せてください。)」
僕  「Here it is.(はいどうぞ。)」
審査官「Are you Japanese? (君は日本人か?)」
僕  「Ya.(そうだよ。)」
審査官「You look like Nepaly.(ネパール人かと思った。)」
僕  「ダンニャバード。(ありがとう。)」
と、二人とも笑顔で、すごく良い気持ちがよい。

 中国出国の時に見た人民軍の兵隊のような格好をした(実際そうかもしれないが…)審査官とは天と地ほどの開きがある。このような差がお国柄を象徴していると言っていいだろう。

 

1994年9月6日 ラルン峠手前(4865m)→ラルン峠(5050m)ニャラム(3830m) 晴れ/ホテル泊

5,000mからのダウンヒルのはずが…

 ラルン峠(5050m)を越えると、ここから距離約120km、標高差5,000mのダウンヒルがはじまる。こんなスケールの大きな下りは、日本国内では体験したことがない。
 砂漠のような山々の狭間に見え隠れする、真っ白な氷河で覆われた山々は、そのアンバランスさ故か、一種神秘的なものを感じさせる。

 ところで、僕らが走っているこの地面は、数億年以上昔は何処にあったのだろうか。走りながら、ふとそんなことを考えてしまう。というのも、7千年もの昔、アフリカ・プレートを離れたインド・プレートが、アジア・プレートの端である今のチベットあたりにぶつかり、それからはどんどとアジア・プレートを持ち上げ、今のチベット高原ができあがったのだという。それにともない、このヒマラヤ山系が形成されたようだ。今もなお、インド・プレートはアジア・プレートの下に潜り込み続けており、エベレスト山も毎年に1センチぐらいづつ高くなっているという説もある。

 こんな事を考えながらも、3人はどんどんと高度を下げてゆく。1時間ほど前からだろうか、吹きだした向かい風は高度を下げるにともなって、どんどんと強くなり、下る僕らを空の方に押し戻そうとする。
 目の前の景色は、どんどんと谷底に向かって下っているはずなのだが、登りのようにしか感じなくなっている。
 全身の力を振り絞ってペダルを踏まなければ、全くと言っていいほど前に進まないのだ。何度も休憩しながら数時間走り続け、気が付くと、川沿いの緩やかな道に出ていた。風も穏やかになり、先に集落が見えてきた。ネパールとの国境の町ニャラムだ。

ディスコ”夜沙”

 ニャラムという、標高3,750mの山の奥深いところにも、ディスコが存在した。

「世界一高い所にあるディスコ」ではないだろうか。

 真夜中に出かけてみたが、怪しい!?ディスコ・ミュージックがかかっており、照明は日本のひなびたディスコとあまり変わりはない。客は中国の漢族がほとんどで、皆普段着で気軽に踊っている。
 中には中学生位のかわいらしい少女がいて、心配して探しに来たのか、入り口から呼んでいる母さんに気づき、逃げまどっていたのが印象的だ。

 他に飯店が3軒にホテルが2軒、銀行・郵便局・書店・飲み屋・ビリヤード屋・駄菓子屋等が一軒ずつある。

1994年9月5日 ティンリー(4320m)→ラルン峠手前(4865m) 晴れ/招待所

峠手前のデット・ヒート

 左側の彼方に連なるヒマラヤの山並みを眺めながら、今日もチベットの大地をひた走る。

 今日こそ、うまくヒッチハイクしてラルン峠を越えておかないと、残り5日でカトマンズに到着することは難しくなってくる。ラルン峠より先の5,000mダウンヒルの途中でヒッチハイクすることは、できるだけ避けたいのだ。

 今まで、シガツェとラツェでヒッチハイクできるトラックを見つけようと頑張っていたが、町中で待っていても見つかった試しがない。もうこれ以上時間を無駄にはできないので、走りながら見つけることにする。

 3時間ほど走っただろうか、後ろの方でトラックが近づいてくる音がしする。振り返るとトラックはすぐそこまで来ている。スゲ峠の時と同じように、道の真ん中に出て運転手に手を振りトラックを止めることができた。
 運転手と話したところ、ラルン峠の手前までは行くことが分かり、3人で250元ということで話が成立した。決して安い金額ではないが、背に腹はかえられない。

 空の荷台に自転車を乗せ、僕らも乗り込み荷台に腰を落ち着けた。しかし走り出すと、座ってなんかいられない。洗濯板状のダートのおかげで、殆ど空荷のトラックはドォワン・ドォワンと空中に投げ出され、荷台の自転車も僕らも、みんなそれに合わせて、宙に浮いては荷台にたたきつけられる。

 幌の鉄フレームにぶらさがったまま荷台から後ろを眺めていると、一人のサイクリストが眼に入った。あのアンディーをトラックで追い抜かしてしまったのだ。彼が僕らに気付いていたかどうか分からないが、僕にとって彼をヒッチハイクで追い抜かしたことは余り気持ちのいいことではなかった。

 70kmほど走っただろうか、トラックは僕らを降ろして走り去った。

 高度4,650m、ここからは登りだ。

 30分程登った頃、驚いたことにあのアンディーが僕らに追いついてくるではないか!速い!
 僕は抜かれてなるものかと頑張りはじめた。

 彼が知っているかどうかわからないが、僕らは70kmもショートカットしたのだ。それに対して、おそらく彼はすべて自力で走ってきたのだろう。それでも疲れを見せずグイグイと登ってくる。後続の一人は完全に抜き去られ、もう一人が抜かれるのも時間の問題だ。

 僕はフィッシュ&チップスしか食ってないやつになんか負けてたまるか!などとなかば本気で考えながら、彼を引き離しにかかる。
 スゲ峠の時と同様、ペダルを回すリズムを一定に保ち、呼吸が乱れないよう気をつける。だが絶対に後ろは振り向かない。つづら折れのヘアピンコーナーを曲がった時、アドバンテージがどれくらいかをチラッと確認するだけだ。容赦なく照りつける太陽に、汗がたらたらと流れ出す。止まって水を飲みたいが、そんなことをするとすぐに追いつかれそうだ。またチラッとアドバンテージを確認する。徐々にではあるが、間隔が開いてきているようだ。

 そんなことが一時間以上続いた頃、風にたなびくタルチョが眼に飛び込んできた。

 初めて後ろを振り返ったとき、視界に入ったのは赤茶けた山々だけだった。

 後で気付いたが、ここはラルン峠ではなく、手元の地図には乗っていない一つ手前の峠だった。ラルン峠越えは明日にして、近くの招待所に泊めてもらうことにした。

(タルチョ:チベットの峠には必ずあると言って良い。縄に縛られた色とりどりの布切れには、お経が書かれている。)
(招待所:中国人用の、比較的安い宿泊施設。)

 

1994年9月4日 ルル(4305m)→ティンリー(4320m) 曇り後晴れ/ホテル泊

ヒマラヤ山脈の眺め

 チベットを訪れる人々のなかで、ロンブクからチョモランマ(エベレスト山の中国名)を眺めてみたいという旅人は少なくない。僕らも是非行きたいと思っていたところだ。

 しかし、ロンブクはティンリーから自転車で行くとなると、少なく見積もっても2日はかかると思って良い。ロンブク滞在2日として合計で6日は余分にかかる。しかし、2日滞在しても天気の都合でチョモランマが見えるかどうか分からないのだ。6日後にはカトマンズに到着していなければならないことを考えると、今回はあきらめるざるを得ない。

 とはいっても、ここティンリーから見るヒマラヤの風景には素晴らしいものがある。

1994年9月2日 ラツェ(3920m)→ジアツオ峠手前(4520m) 晴れ/テント泊
1994年9月3日 ジアツオ峠手前(4520m)→ジアツオ峠(5220m)→ルル(4305m) 曇り後雨/テント泊

ランクルとタイマン

 チベットを、チャーターしたランクルで横断し、カトマンズに向かうバック・パッカーは意外と多い。
 ラサで知り合い友達になった日本人カップルも、イスラエル人カップル2組と共に、ランクル一台をチャーターしてのカトマンズ行きだ。

 ランクルとは、TOYOTAのランドクルーザーのことだ。チベットの大都市以外では、このランクルか中国製と思われるトラックしか見かけない、と言っても過言ではない。それくらい道が荒れているし、一般人が車を所有する事は希だ。車はもっぱら物資の運搬や人の移動に利用されている。

 そんなチベットで、彼方まで延々とのびる洗濯板状のダートをものともせず、ランクルは突っ走っていく。そんなランクルにしてみれば、我々サイクリストやチベタンの歩行者など“動く邪魔な障害物”ぐらいの認識しかないようだ。

 彼らは、砂埃をもうもうと上げながら、遙か彼方から突っ走ってくる。こちらを確認してもスピードを緩める気配はない。どんどんと2者の間隔が縮まっていくが、彼らは一向に意に介さない様子。あまりにもひどいとき、僕は自転車に乗ったまま道のど真ん中をずっと走り続ける。彼らが僕らの存在を認め、少しでもブレーキを踏んで、減速するまでそのまま走る。
 ランクルが通り過ぎると、辺りはしばらく視界が聞かず、立ち止まるか勘に頼って走るしかない。時々タイヤにはねられた小石も飛んでくる。当たらないのが不思議なくらいだ。

 彼らは、村が近づいて来ようと、その道で子供たちが遊んでいようと、同じ調子で突っ込んでいく。チベットの自動車文化的なものは、全くの未成熟であるとはいえ、大金を払ってそのドライバーを雇っているのは、殆どが欧米の自動車先進国の人間なのだ…。

 

1994年8月31日 ツオ峠手前(4390m)→ツオ峠(4500m)ラツェ(3920m) 晴れ/ホテル泊
    9月1日 ラツェ滞在(3920m) 晴れ/ホテル泊

イギリス人自転車野郎

 僕らがラツェの町で食堂を探しているときだ。一人のサイクリストがシガツェ方面から走ってきた。
彼はイギリス人で名はアンディー。見つけた食堂で、モォモォとトゥクパを注文し、パクつきながら彼の話を聞く。

 モォモォはチベットの餃子といわれている。形こそ餃子の形をしているが、肉しか詰まっておらず、皮も日本の餃子よりぶ厚くしっとりした感じはない。
 トゥクパは、チベット風うどんで、僕が食べたのはすいとんの汁のようですごくおいしく、おかわりをしたい程だった。
 彼は北京からの4,000kmを約1ヶ月で走り抜けてきたという。それを聞いたとき、僕たちは唖然とした。
 彼の旅のスタイルは。「軽い・速い・格好良い」と、三拍子そろっている。ギリギリまで荷物を切りつめ。衣類はレーサージャージの様に機能的なものを使用。下半身もレーサー用のピッチリしたパンツを履いている。自炊用の食品や機材は最小限で、食堂を見つけたら即食事。無い時はどうしていたのか聞き忘れたが、チョコレートやビスケットで賄っていただろうと、想像がつく。

 逆に僕らは、自炊のための道具や食品を十分に持ち。一日60km前後走れれば良いと思っている。そのかわりに得ることができる余裕は、チベットの民や自然との触れ合いにとっておきたいのだ。つまり、景色も見ずにいかに速く走り抜けるかなんて、“旅”という視点からみれば、もうとっくに卒業した気でいる。

 何も、チベットまで来て、そんなに急がなくても良いのではないかと思うが、もしかしたら彼はチベットの大地、ひいてはアジア・ユーラシア大陸を股に掛けて、いかに速く走り抜けれるかを実践しているとんでもないヤツなのかもしれない。

 日頃仲間内で「旅人の数だけ、旅のスタイルがあるよな…。」なんて話しているのだが、彼の登場で改めてそのことを感じさせられた。
 こんな彼と、後々張り合うことになろうとは...。